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鈍翁再見4 最終回

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「益田鈍翁(どんのう)、孝(たかし)」の大きな功績は日本文化の再生、維持、発展に貢献したことだが、一般的にはあまり知られてない。江戸から明治時代にかけて日本文化は衰亡の危機にあった。明治政府は西欧化推進が至上命令で没落する大名や廃仏棄釈による仏教関連の古美術品が二束三文で欧米諸国に買われ流出していった。これを憂えた鈍翁は三井物産の創業・発展で得た財で日本の古美術品を買い集めた。
 鈍翁は幕府使節団として青年時代に欧米文化に直接触れた経験や奈良・正倉院御物を直接拝観した事、さらに遣唐使として当時先進国であった唐に滞在し、ものの見事に日本の仏教文化を築いた弘法大師をつぶさに勉強した経験などから、欧米文化崇拝の風潮の中で日本人のこれまで培ってきたきめ細かい美意識が世界に誇りうるものと見てとったのだと思う。この点は日本美術の先導役を果たした岡倉天心と似ている。
 鈍翁が国宝の厳島神社・平家納経の代替品の制作を受諾したことや佐竹本三十六歌仙の分割処分の元締めとして推進役を果たした事は当時の日本美術界としては大きな出来事であり、名実ともに日本文化維持を担うパトロンとして面目躍如の活躍をした。平清盛が納経した平家納経が傷みが激しく、これを憂えた厳島神社の宮司が著名な古美術研究家・田中親美を介して鈍翁に模写制作を依頼してきた。鈍翁は勧進元として財界中心に資金を集め模写品を厳島神社に納入した。
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 三十六歌仙二巻は秋田藩主佐竹家に伝わる宝物で、日本も絵巻物中最高の絵巻物として評価されていた。この名品が売りに出され、一旦は山本唯三郎という好事家に引き取られたが、再び売りに出された。ところが余りに高額の価格だったため誰も購入する人物が現れなかった。困った美術商やその道の専門家が相談した結果、購入しやすいようにこの巻物を分割処分することに決め、鈍翁に相談に行った。鈍翁が行事役になって鈍翁築地邸で分割された巻物ごとに評価額を決め、関係者が集まり籤引きで分配された。
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三渓、耳庵とともに明治の三茶人といわれた鈍翁は茶道会においても偉大な足跡を残した。現在も続く大茶会「大師会」は鈍翁が崇拝する弘法大師の書を入手した事をきっかけに彼の邸宅、品川御殿山・碧雲台で明治22年に始まった。
大師会はこれまでの茶室の囲まれた空間での茶会を、園遊会風の茶会に発展させた。茶室ではお茶だけを振る舞い、別室では懐石料理に代わり点心を振る舞う事にするなど、多数の人が参加できる大寄せの茶会を始めた。これが現代の茶会に発展している。禅宗を骨子としたこれまでの茶会を大師会では密教美術を始めとした仏教美術を積極的に取り入れた。これによって奈良時代はもとより中国、朝鮮の古美術までが導入され茶会が厚みを増した。
一部では鈍翁の茶を「道具立て中心」との批判が出たが、やがて実業界を離れた鈍翁は小田原・掃雲台での茶道三昧の生活になった。このような修錬の結果、鈍翁は精神性が高まり「茶禅一如」の心境に達した。しかし日米開戦の気雲が高まる暗い世相の中で死期を迎えた鈍翁は「空より出でて空に還る。カ―ツ」と謠で鍛えた声で吟じ、4日後の昭和13年12月28日、掃雲台で静かに息を引き取った。鈍翁はすでにこの地に開戦を予期してこれまで集めた古美術品の消失を恐れて美術品用防空壕まで建造しており、鈍翁がいかに先人が残した日本の文化を大切にし後世に伝えたいとの思いが強かったかを知ることができる。
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by minicomi-en | 2012-05-20 16:02 | 記事